ニューヨーク夢幻(ゆめまぼろし)のごとく住み 日影眩 <その5・12月> |
日影眩プロフィール:画家。個展、グループ展歴多数。1994年よりニューヨーク・ブルックリンに滞在。 |
クリスマス・パーティ |
NYに来て4年を過ぎたが、典型的アメリカ式のクリスマス・パーティに招かれたことはなかった。年末にはパーティが多くなる。恒例のものもあるが、このところ私が呼ばれて参加していたのは日本人の主催する、或いはアメリカ人の主催でも客の大部分が日本人であるようなパーティであった。 その上に、24日のイブの夜に開かれるものは無かった。アメリカではサンクスギビング・デイとクリスマス・イブが、日本の盆と正月に相応する、家族が集まる祭日で、イブの夜は家族で過ごすのである。で、家族のない独り者が、そういう人たちばかりが集まる身内的なパーティに招かれることになる。 私のルーム・メートのスティーブ・ワット教授は、もうほぼ帰ってこない。月に2度くらいはメールを取りに戻ってくるが、泊まることはないのである。暮れに戻ってきた時はガールフレンドのエディさんが一緒だった。 その時にエディさんに「もし予定がないのなら」と招待されて、地図を書いてもらった。ところで聞いたら日本人はスティーブンが半分だけという。半分といったって彼は日本語は話せないのである。第一お母さんがもう話せなかったというのだから、話しにならない。果たしてアメリカ人ばかりのパーティで間が持つかと不安になった。 しかしその日が近づいたら、段々期待する気持ちも出てきた。24日午後7時からで、場所は音に聞こえた高級住宅地アッパー・イースト74丁目である。当日私はその前にチェルシーの画廊街をのぞこうと予定を立てた。早めに行ったら、何と祝日クリスマスデイ26日の2日前なのに、もうクリスマス・ホリデイということで画廊はどこも閉まっていた。 23丁目8番街の近くの酒屋でワインを買うつもりで見ていたら、白鶴の、銚子と杯二つが付いたセットがあったのでそれを買った。時間が少し余ってしまったので、23丁目を歩いて東に向かい、6番街のバーンズ・アンド・ノーブルで、雑誌などを見て時間を潰した。その後6番列車のステーションに向かいながら、5番街のフラットアイアン・ビルの所から、冷え込んだイブの夜を背景に浮かび上がるエンパイアステート・ビル(写真)を撮っていると、こんな夜に一緒に過ごせるような親しい人のいないNYでの孤独を思った。 78丁目駅で降りて、1番街と2番街の間にある彼女のアパートにたどり着いた。何しろ今冬一番の冷え込みの日で、まるでおあつらえ向きに朝から雪になって積もり、夕方には止んだが、まだ通りには雪が解け残っているのである。出てくる時に坊主頭の私は帽子を忘れたのを気にしたが、意外に頭の禿げた人が帽子を被っていなかったりするので、私もそのままで来たのだった。 「ハーイ!」「メーリークリスマス!」と顔一杯の笑顔で、ドアを開けるとエディさんがハグの挨拶で迎えてくれた。そこで「酒」を渡して、人肌に燗をする方法を伝授する。入り口に中国人の熟年男性がいて、白人のこれまた熟年の男性と話していたが、ちゃんとしたネイティブ・イングリッシュである。エディさんが年輩の女性を紹介してくれたが、同居しているお母さんだった。スティーブンは脇目もふらずキッチンから皿を運んだりしている。 のぞいてみたら、白人の年輩の男女がソファなどに座って談笑していたが、部屋の壁にはあらゆる種類の額縁に入った版画やカリグラフィや絵が掛けてあり、様々な装飾品も配置されていて、玄関もリビングも手入れが行き届いて綺麗である。テーブルにはエディさん手作りのすし、お母さん手作りという大きなチョコレートケーキなど食欲をそそる料理皿が既に並べられている。
「僕が帰らない理由が分かった?」とスティーブンが笑っていった。私たちのアパートに比べたら「まったく、これは月にスッポン、泥に雲」というのをエディさんに英語でいうが(当たり前か)、ちゃんと通じたかナー? エディさんは30年以上前に、メキシコ人のお父さんが亡くなった後、サンフランシスコからこのアパートに引っ越してきた。そんなに長くいるから、音に聞こえた高級住宅地でも、家賃は当時と変わらないままで安く住んでいられる、とスティーブンがいった。 私は、客はスティーブンの仲間の大学教授などが多いのかと思って聞いてみたら、皆エディさんとお母さんのスクールの関係者ということだった。エディさんは今もミドルタウンにある英語学校の先生である。中国人の学生が多いということだったが、一度カリキュラムの資料を送ってもらったが、授業料が高いので最初から私はパスしたのだった。お母さんも以前はそこで先生をしていたということだが、当夜はお母さんの友達、つまりかなり高齢の方々も多かったようであるが、15人くらいの出席である。 ずらりとコケイジャン(白人)の方々の座っているところにはなかなか入りにくい。そのせいかどうか中国人男性は遂に最後までリビングには行かず、玄関の側の部屋にいた。私は客の相手になるためにリビングに行ったスティーブンの横の椅子が空いたのをきっかけに、そっちへ行ってみたが、聞いてみると、昨年のオーストリア旅行で行ったオペラ劇場での「ラ・ボエーム」の観劇の模様を話し、一方の人はまた、ヨーロッパの別の都市で見た別のオペラの話しをしているのであった。その話であるならば、実は一昨年のイタリア旅行の節に、ミラノのオペラ座で私が見たワーグナーの「ジークフリート」の話をしなければなるまい。何しろ私はそのオペラを見るためにスーツとネクタイを当地で買ったのである。もっともドイツ語の歌詞は、一階正面ボックス席で同席したカナダからの社長の言ではないが、「ノー・アイデア」だったのだが。と思ったけど面倒なので止めた。 私が話したのは、彼らとスティーブンなどを、私が持っていったオリンパスのデジカメで撮ったときに、「スマートメディアというカードがフィルムの代わりで、現像の必要が無く即座に見られて、しかも何度でも使える」という説明をした時で、まあ、私が威張るようなことでもありませんが、ハハハハ、、。その他にはまた別の人と、ピアニストの話などをいくらかしたが、なぜ音楽の話が多かったのだろうか?。ちなみに、私は画家というよりは美術批評家として紹介されたようだ。考えてみると、画家は自称もあり得るが、批評家は自称では成り立たないからか?。 私はもっぱらワインをもらって飲んでいたが、半ば頃には出来上がったローストビーフなどが出され、私も切り分けてご馳走になったが、お世辞ではなくエディさんの巻きずしは研究の成果か、「日本レストランのものより美味しい」(そう私がいっているとスティーブンがエディさんに伝えたが)と実際に思った。 10時も過ぎて、パーティも終わりに近づいた頃、シャンパンが何本か抜かれる。それから大きなチョコレートケーキが切り分けられ、またタピオカのお菓子などデザートが出される。あとから14才のコリアとドイツの混血のハイスクールの女子学生が参加していたのだが、そのレイナちゃんがクリスマスツリーの横でプレゼントの包みを調べていくらか持ってきたと思ったら、その内の一つを私にくれた。ちゃんと私の名前が書いてあって、包みを開いたら、紙に包まれた飴で固めた豆菓子のようなのが7〜8個も入っていた。母さんが「それはラハットロクームというお菓子で、食べた人が思わず「ラハットロクーム!」というのでその名が付いた。ラハットロクームというのはオー、パラダイス!という意味のトルコ語よ」と教えてくれた。帰ってからこのお菓子を食べて、実際に私は「オー、パラダイス!」と叫んだよ。本当の話。 「また、パーティに来て頂戴」とお母さんに歓待されて、エディさんから紙袋一杯の巻きずしやローストビーフやチョコレートケーキをお土産にもらって、同じ方向のパークスロープまで帰るという、韓国人母娘と一緒に、中国人グラフィック・デザイナーのスバルに乗せてもらい送ってもらった。スティーブンとこの2人半と私が非白人であった。もう11時を過ぎていて、零下4〜5度、かなり冷え込む雪の解け残った道路で、「日影さん帽子をつけなさいよ」とコリアのお母さんにいわれた。車の中で、アメリカ生まれの中国人の叔父さんデザイナーと、14才混血の女子高校生の学期に関する”あうん”の会話は、もうさっぱり分からなくて、ちっとも笑えず。多分、叔父さんはどこかでダサイことをいって、どこかずれていたのに違いないのだろうが、、? 後日、私はエディさんをはじめ3人にそれぞれの写真をEメールで送ったけれど、誰からも受け取ったというメールは届かないままになった。
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●<その1>ブルックリン、プロスペクト・プレースへ |