ニューヨーク夢幻(ゆめまぼろし)のごとく住み 日影眩 <その10・2007年3月>
Living in New York as in a dream or fantasy, by Gen Hikage (artist)
影眩プロフィール:画家。個展、グループ展歴多数。1994年よりニューヨーク・ブルックリンに滞在。
1994年7月から2006年8月まで、月刊「ギャラリー」誌に 「日影眩の360°のニューヨーク」(ニューヨーク・アート情報のレポート)連載、2000年9月に同名の単行本を出版。
YMCA

 Prospect Park YMCA
 私は東京で住まいの近くにあったドゥ・スポーツ・プラザの日中会員になっていた。確か年間12万円くらいで入会金無しの特別募集で入ったと思うが、バルブがはじけてスポーツクラブの経営も苦しくなってきているといわれていた頃である。この日中会員は月曜から金曜までの午後4時までに入らないといけない。ここで体力検査をしてそれに見合ったプログラムを組んでもらった。アスレチック・マシンを使い、それにストレッチ体操、走ることなどを組み合わせたプログラムで、全体で1時間くらいの運動量に設定されていた。その後で泳いだり、ボーリングを時にはしたがそれはこのプログラムの運動量の計算には入ってなかったのである。けれどもここの楽しみは運動の後でのサウナ風呂や水風呂、バブル風呂などの設備が贅沢に備えられていて、多分バブルがはじけなければ、私などには味わえなかったに違いないと思えるとても贅沢な気持ちになれることだった。けれども実際の所、そう毎日運動している訳にも行かないのでせいぜい週二回も行けば良い方だった。こういう運動はつい面倒になると行かなくなってしまって高額の会費を無駄にするということを聞くが、私は会費を払っているからと、それから「あなたは一見痩せているが実は軽い肥満状態だ」といわれたこともあって、無理にも通ったのであるが、そのことで実は通う習性がついた面もあったと思う。

 その後近くの越中島に立派な区民のためのアスレチック・ジムが完成して、これも実にバルブ時の税収の増大で結果的にはそれがはじけたところで完成したのだから、まあナチスのお陰でアウトバーンが完成したようなものだったが、そこはサウナこそ無いが立派に最新マシンが揃えられていて、一回350円という安さだったので、私はそっちに通うことにした。ここでも一応の説明を公務員のトレーナーから受けた。けれども私は自分のやり方をそらんじていたのでサーキット・トレーニングをするのに戸惑いは無かった。

 ニューヨークに来てそのような運動の施設があるかと気にしたのは運動することがとても大事なことだと自覚し始めていたからである。例えば私は16歳の頃に自転車に乗ったまま崖から落ちて肩の骨を折ったのであるが、それ以来私の胸の幅は左の背中が右のそれに比べて張り出していないままになっているために左側がとても貧弱に見えたが、その筋肉がいつのまにか競り出してきて左右が同じになった。もう何十年も骨を折ってそうなったと思いこんでいたが、実は運動不足が原因だったと分かったというようなことがあった。

 最初に私が住んだブルックリンのグリーンポイントには、ワンブロック先にYMCAがあってこれは実に便利であった。アスレチック・マシンの種類にもさほどの違いが無かったのはこういう機械はもともとアメリカから来たものだったからだろう。地階にプールがあったがここでは私は2回くらいしか泳いでいない。この地域はポーランド移民の人々の住む地域で、だからポーリッシが多かったはずである。しかしヒスパニックやアジア人も混じっていた。といってもなぜか日本人には会わなかった。それと東京のドゥなどで見かける老人の姿はほとんど見かけなかった。恐らくポーランドのお国柄と関係があるのかも知れない。325ドルの年会費は月毎の分割払いにしたが、請求書は来たり来なかったりで、来ないので払わないでいると突然警告書が来たりでアメリカの出鱈目さの実地勉強という趣であった。運動の一部は地下にある重量挙げの部屋に通ったが、ここはなぜか筋肉マンの巣窟で皆筋骨隆々で超重量で運動していた。ちょうど前が警察署であったからもしかすると警官達が使っていたのかも知れない。

 私の友人の日本人アーチストが運動不足を気にしているところだったので私の話を聞いて彼の住まいの近くにある23丁目マックバーニーYMCAに入会したが、ここは月会費が65ドルくらいだった。それが一番安い会費で、その代わり曜日と入場時間の制限はない。彼がマシンの使い方、運動の仕方を教えてくれというので私はそこに行ったのだが、グリーンポイントの会員証では入れるが当日料金を払わないといけない。ニューヨークのYMCAは地域によって内容も会費も全く違っているのである。ここでも泳いでみたのだが、シャワールームに行くと全裸の金髪の格好いい美青年が覗きに来る。彼から聞いていたのだが実際に男達から値踏みする視線が飛んでくるのである。これをこそ「Awful!」というのである。いや「Fearful!」か。私などはこの街で女から値踏みされたこともない。いやそう書くとよほど魅力が無いかと思われるかも知れないが、イタリアでは、、、待てよ、女性というのは値踏みはしませんね。あれは値踏みではなくて同志を探す目つきなのであるだろうか? 何にしても裸になる場所、サウナにも怪しげなムードが漂っていました。昔、西条秀樹の「YMCA」という歌が日本でも流行ったがあれはオリジナルがあるわけで、明らかにあのYMCAは、ここのマックバーニーYMCAがモデルなのである。ここで急に美術の話ですが、有名なホモのアーチスト、92歳でまだ健在で昨年はホイットニー美術館でも個展を開いたポール・カドマスは円熟するニューヨークの都市生活の風刺的考察をルネサンスの巨匠達のテーマと構図に重ね合わせる野心的な作品を1930年代を通じて発表したといわれるが、そのうちの一点「Horseplay」は、実に明らかにこのマックバーニーYMCAが舞台と考えられるのである。青年のヘアスタイルが実に1930年代を表しているといえ私が昨年見た光景と差はない。ともかくここは由緒正しく歴史的な、今も爛熟する都市文化の舞台であり続けているのだ。

Paul Cadmus Horseplay 1935
 95年の11月に今住んでいるブルックリンのプロスペクト公園に近いプロスペクト・プレースに引っ越してきた。越してくる前に近くにYMCAが無いか調べて実地に見に行ったが、私が住む予定の地域からパークスロープという一地域を超えて反対側にある9丁目という大通りに面していて、玄関を入ると受付は金網で守られており、そこから奧へのドアには鍵が掛かっているので、私は少しビビッた。実際このことはブルックリン中央図書館にピストルこそ持っていないが手錠を身につけたNYPD(ニューヨーク市警)の警官が大勢勤務している事と同様、私がここに越してくるのをためらった原因の一つになった。

 ともかく話を聞いたらその場で三回分くらいのお試し券をくれた。それにここには実にオフ・ピーク・メンバーという制度があって、月曜から金曜まで、午後3時までに入場で、年会費が何と200ドルというのがあった。日本円で今なら約2万2千円である。しかしながらパークスロープの中をしゃれた商店通りとはいえ、セブンスアベニューという通りを30分以上歩かないと行けない。バスも通っているが待ち時間を考えると乗るのがよいかどうか考えものである。けれども私は週に一回は午前中にインターナショナルセンターという23丁目にある英語のノンプロフィットの移民のための教育施設に通っていたので、そこから地下鉄で回れば片道を歩くだけで済む。結局引っ越して来た後でここに申し込んで会員になった。

 ここはプロスペクト・パークYMCAというのであり、有名な高級住宅地の一角を占めるだけあって、ここで出会う人達はアメリカ人一般を代表しているように見える。黒人、幾らかのアジア人は居てもヒスパニックは見かけない。若い女性も多い。それにもう白髪の白人の老人達が通っているようである。不思議にも老女性は少ないようだ。明るく設備も充実していて、地下の重量挙げの部屋にもそれほどマッチョマンが詰めかけていない。それから実に不思議だがホモの人も少ないようである。たまにいないでもなさそうであるが、目立たない。アメリカでは女性のホモ、つまりレスビアンも多いというが気がつかない。今は夏休みでちょうど私が行く1時以降の時間帯はプールが子供達によって占有されているが、それ以外の期間はプールで泳げるし、1レーン4人までの制限も滅多にそれを超えるほど混むことはない。それにここはスチーム・バスとサウナ風呂の両方があって、泳いだ後スチーム・バスに入ってシャワーを浴びれば実に天国である。まあ、ここで私は鏡に映る各国人種の老若のチンチンなどを観察し自分のと比べてみたりしましたが最近では気にしませんので報告もしません。

 帰りにはセブンスアべニューの商店通りを通って銀行に寄り、コピーを取るというような用事もすませて買い物もして帰ってくる。それで手早く肴を作って、時にはコリアのグロサリーで買った豆腐で冷や奴にしたり、或いは鳥のレバと葱を煮たりして缶ビールを2缶飲む。銘柄はバドワイザーであったりミラーであったりするが、まあその後は仕事が出来るわけがありませんが、まあ運動の後のビールのうまさは格別で、週一回くらいは良いではないかと思うのであるが、ま、問題は他の日も大差無かったりすることだろうか?

 ここでは人々は気軽に互いに挨拶するしいろいろとおしゃべりも楽しんでいるのであるが、ある時ロッカールームで着替えていたら、裸の白髪の白人の老人が突然私に「スチーブン・ワットは元気かい?」と声を掛けてきた。「えーっ?何でスチーブン・ワットを知っているの?」と仰天して私が聞いたら「時々会ったから」とブツブツいって向こうへ行ってしまった。帰ろうとして見たがもう見当たらなかった。何しろYMCAは私のアパートから徒歩で40分程も離れたところにあるし、アパートの近所は皆黒人の住人が多くて、2年近くいるが白人の老人を見かけたことはないのである。後で思い出してスチーブンに聞いてみたが、彼は首をひねった。何しろ第一何でこの日本人の私がスチーブンとシェアしていると分かったのだろうか? そんなことは隣の人か大家の知り合いででも無ければ分からないのではないか? 「ミステリーだねぇ」とスチーブンがいった。何週か後に同じロッカールームで「Hi!」といった老人がいたので「スチーブンのことを前に聞いたか?」と聞いてみたが「知らない」といった。私には白髪の白人の老人の顔の見分けがつかないのである。英語の発音の聞き分けも駄目だが、、、。えーっ、まさか「スチーム・バスはどうだった?」っていったんじゃないよねぇ?

 

●<その1>ブルックリン、プロスペクト・プレースへ
●<その2>YMCAへ
●<その3>ハローウィンへ
●<その4>午前3時のサブウエイへ
●<その5>クリスマス・パーティへ
●<その6>ドイツを旅した(1)へ
●<その7>P.S.1「大ニューヨーク」展/2000へ
●<その8>ワールドトレードセンター崩壊
●<その9>楽しい、しかし暑い、ブルックリンの夏
●<その10>グリーン・マーケット 3月10日土曜日、晴れ、
●<その11>ゴッド・ブレス・アメリカ(神はアメリカを祝福したまう)
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