ニューヨーク夢幻(ゆめまぼろし)のごとく住み 日影眩 <その1 / 6月> |
日影眩プロフィール:画家。個展、グループ展歴多数。1994年よりニューヨーク・ブルックリンに滞在。 |
ブルックリン、プロスペクト・プレース |
私の住むアパート Prospect
Place Brooklyn New York 私が住んでいる地域は、マンハッタン島からマンハッタン橋をブルックリンに渡って、プロスペクト公園に向かって直進するフラットブッシュ・アベニューの、間もなくグランド・アーミー・プラザという地点の左側に位置している。右側は戦前から富裕な人々の住む高級住宅地として知られるパークスロープであるが、/images/essay/image1.gif左側すなわち通りの東側は昔から黒人の住む地域で、更に東の地域はハーレムを上回る黒人居住地域として知られるベドフォード・スタイブサントである。 近代において奴隷制度を有した巨大国家アメリカでは、至る所に鉄道や幹線道路を挟んで一方に富裕な白人層の住む地域、一方にかつて白人に仕えた貧しい黒人奴隷達が住む地域という形での地域形成が今も残されており、その地域格差は今も人種差別と共に克服されねばならない大きな問題としてアメリカン・カルチャーに暗い影を落としているといってもよいが、その二つの貧富の地域が接する地帯は「フリンジ」(周辺域)と呼ばれ、今も犯罪の激発する地域である。 私が住んでいるのはまさにこの「フリンジ」に当たるわけであるが、このほぼ1年の間にアメリカの犯罪発生率は激減して1960年代はじめの段階にまで戻ったとされるが、これまでも南米やヨーロッパからの新移民の徐々の増大もあり、黒人以外の人種の増加が見られたこの地域は、今ではこの経済の好転に伴う犯罪の減少も追い風となって白人居住者も増えつつある地域の境界を奥深くへ押し広げている。 私のアパートの家主はエレノアさんという太った40代のとても気のいい黒人女性であるが、ハズバンドのヘイウッドさんがまた若い頃のアンソニー・クインを黒人にしたようなタイプの人柄のよい人で、水回りの修理などはプロはだしの腕前で彼がこなしてくれるわけであるが、お陰様で実に快適に暮らしていられるのである。しかしながら何しろ恐らくは今世紀の初めに建てられた建物であるから古いという点では弁護は出来ない。この辺り一帯の建物全体がほとんどが4階建てに揃えられた一定の様式を持ち、同じ時代に作られたという来歴を共有しているのである。けれども歴史的様式の格調をデコレーションやデザイン、材質などに示している点では今時の日本の建て売り住宅の底の浅さの対抗できるところではない。 まあこんなことを書くのは昨年、ちょっとだけ私のアパートに来させた、ツアーでやってきて、かのトランプ氏経営と聞くグランド・ハイアット・ホテルに泊まっていた弟が「汚いところに住んでいた」と自分のかみさん(私の義理の妹であるが)にいったらしいと、私のかみさんが怒っていたのを思い出したからである。これを汚いと思うか思わないかは、その人の内面生活に関わっているのである。 で、まあ、次は何を書くんだっけ? 思わず少し心理的プレッシャーが生じたので忘れてしまった。あ、そうだ。ともかくそれで家賃が安い。約8帖のベッドルームと16帖くらいのリビングと4帖くらいの書斎の三部屋で月325ドル(約3万7〜9千円)なのである。以前に私は同じブルックリンでももう少し北に位置するグリーンポイントのアパートに居たが、家賃は600ドルであった。ほぼ半額になったわけだが、但しここでは私はアメリカ人の数学教授とアパートをシェアしているのである。 このアパートに私が来ることになった来歴は、ここにそれまで4年間住んでいた芸大出身の彫刻家でニューヨーク在住20年以上の大下寿馬さんが結婚して、子供もできたのでグラフイックデザイナーの夫人、容子さんと共同でもっと大きいレジデンスを次のブロックに見つけて引っ越すことになったからである。大下さんはニューヨークでもコマーシャルギャラリー(企画画廊)で何度か個展もして、昨年もボストンで個展をした有力な彫刻家なのであるが、彼は私のニューヨークでの生活スタートに非常に親身に面倒を見てくれた頼りがいのある立派な人物で私は大いに感謝しているのであるが、この時はしかし彼が声を掛けてくれたというよりは、たまたまパーティで一緒になって空き家になる部屋の家賃の額を聞いたことで、私が関心を持ち見せて貰うという形で始まった。 私はしかし当分引っ越すかどうかをためらったが、その理由はその時住んでいた部屋と地域を良いと信じ切っていたこと、一方ここがフリンジで犯罪の発生率が高いと思われていたことの他に、そもそもアーティストが他の人と共同生活が出来るかどうか?ということが一番の大きなためらいの理由であった。私にとってアメリカでの今後の一年一年はとても大事な期間と思えたし、制作の環境が損なわれることをもっとも恐れていたのである。それに私は何かを決断しなければならないということに全く弱い、と信じたが、実はその時点ではアメリカ生活を始めて一年少しを経過したところで、言葉とか生活の在り方とか総て異なる環境での孤独な暮らしで、すっかり神経質になり、正常とはいえない精神状態だったようだと気が付いたのは最近のことだが、そのような異常な心理も決断を長引かせたようだ。例えば他にもたかが知れた値段の日用品を買う場合さえ異常に値段にこだわり買うことをためらってうろうろしたりしたのを思い出す。 ともあれそれでも何とか引っ越すことにしてプロスペクト・プレースのこのアパートに引っ越してきたのは一昨年1995年の11月のことである。ルームメートのスティーブン・ワット教授はハワイ出身の中国(父)と日本(母)系のアメリカ人であるが、日本語はまるで話せない。彼にはマンハッタンに住むエディさんという恋人が居て一週の内3〜4日は帰ってこない。このアパートは冬になるとがんがんヒーターが入ってまるで常夏のような室温になるが、ハワイ出身の教授は眼鏡を掛けた大柄な40代の男性だが、何時も上半身は裸である。彼は黒髪を腰まで伸ばして出掛けるときは根元で束ねているが、家にいるときは腰まで垂らしたままである。その上に肩から背中に掛けて一筋に連なる人型の入れ墨をしているのである。これは何かオーストラリアのアボリジニーの民族的な入れ墨だと彼の説明を聞いたことがあるが、何しろ入れ墨だ。彼にいつかCDを借りようとしたが、彼が持っているのはエスニックの音楽ばかりで私からするとどうも土臭くて好きになれず借りるのを諦めたことがある。アメリカ人というのはなぜかこのエスニックの民族的な曲などを好む人が多いのである。 アパートをシェアするというのは玄関と廊下と台所と風呂場を共同で使うのであるから、まあ居れば何かと顔付き合わせるしかない。その上にこのアパートではそれぞれの部屋のドアーというものがないのである。初めはあったのだろうがいつのまにか無くなってしまったということだろう。台所の横の部屋の彼のベッドルームは丸見えだし、向こうも用があるとずかずかと私の寝ているところへ、断りもなく顔を出す。まあ秘密もへったくれもないが、彼は日本語が読めないから気が楽ではある。しかし互いに屁をこいても聞こえる。 けれども彼はルームメートとしては理想的と思える人物で私の心配は杞憂であることが直ぐに判明した。彼は時として口も聞かず顔も見ないが一緒に暮らすためには、そのような互いの相手の無視が好都合であるのだと直ぐに気が付いた。私はアメリカン・カルチャーの一つである「シェア」を学んだのである。 それでもこんな安い部屋にシェアしてまで住んでいるのだから、それにその風姿いでたちといい、どこかあまり聞いたことのないマイナーな大学の先生かと思っていた。ある時私の英会話のパートナーであるアイルランド系アメリカ人のトーマス・ローチ氏が聞いたので「彼はメアリーマウント・マンハッタン・カレッジとブルックリンハイツのセント・フランシス・カレッジの数学教授」だと答えたら、どちらも「宗教系のベリー、ベリー、ベリー、エキセレント(優秀な)な大学だ」と、ベリーを強調してローチ氏が感心した。 ところで彼は、司馬遷の「史記」で名高い、中国の戦国時代の楚の王族に生まれ、汨羅(べきら)の淵に身を投じた憂国の詩人、屈原(前343〜前277頃)の子孫だと父に教えられてきたと笑っていったことがある。さもありなんとはこういう場合にいうのだろうが、ニューヨークで彼の口から英語で聞くと幻想的で実に気も遠くなりそうであった。 さて私は時として美術批評の(どこの国でも美術批評くらいしち難しい文章は他に無いという点では洋の東西というものを問わないのである)訳に手こずると彼の助けを呼ぶ。たちまちにして彼は保証し或いは正しい答えを選んでくれる。彼は数学の教授であるが彼の部屋の本は廊下にまではみ出して私の往来の邪魔をするくらいの読書人であるから、私の訳は大事な部分については保証付きなのである。 私の決定は正しかったけど、実はこの一年は作品は作れないままになった。けれどもそれはこのアパートともシェアとも関係の無い理由によるだろう。、、、、!?。 |
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