実相寺昭雄
日影さんの世界に目がとまってから、10数年もたつ、ずっとファンだったが、ひそかに拍手を送ることに耐えきれず、一緒に仕事をさせていただく関係にもなった。
百数十枚に及ぶ挿し絵を、私の小説に付けていただいたのは数年前のことだ。それは至福の記憶として、あざやかだ。その折、日影さんにお願いしてちょうだいした絵は、私の宝物になった。
目にとまる限り、日影さんの仕事にため息をつき、あこがれている。が、勿論、多岐に汎るその世界を追いきれるものではない。でもファンて奴は、一方的に、勝手に思いこんで、自分なりの像を結んでしまうものだ。だから私の思い入れも勘弁していただきたい。
何よりも、昔から一貫して私が引かれるのは、たしかな視点である。カメラポジションの新しさである。はじめ、他愛もないSM小説の挿絵で、このアングルを見つけたとき、私は仰天してしまった。日影さんが尋常なポジションを越えて、現実を引っ張っていたからだ。のみならず小説を別次元へと飛翔させていたことに驚いてしまった。
しかし、いまは、なかなか寓話が現実を越えられない時代だ。各所で、仮相の復権が叫ばれているが、なかなか実を結ばない。日影さんのまなざしがペースメーカーとなって、エロチシズムを引きずっていたが、そう安閑としてもいられない状態になってきた。
生意気なことを言うようだが、この日影眩」展は墓標とUFOの二重構造、と思う。これから、ここから、日影さんの大展開が、あるいは大転回が、あるいは大天界が、はじまるのではないだろうか。
そして、この場所から、われわれを置き去りに、日影さんが旅に出るような気がしてならない。
私は、そんな新しい胸騒ぎに襲われている。曼陀羅の現出する世界へ、ひたむきに歩いてゆく日影さんの後ろ姿が、私には見えてくる。(映画監督)
横尾忠則
日影君を知ったのは神戸である。もう25年も26年も前のことである。二人とも当然凄く若かった。彼とぼくは多分同い年か、もしそうでなくともそんなに変わらない歳であったと思う。知り合った頃二人はすでにグラフイックデザイナーの道を歩み始めていた。
その頃神戸の若手デザイナー、それもとびきりラジカルな連中数人で「NON」というグループを形成していた。そのメンバーに日影君もぼくもいた。灘本唯人はこのグループの指導射的立場でボス的存在であった。当初、日影君とぼくはこのグループの最年少者であったが、そんな中でぼくが一番最初にマークしたのが日影君だった。「何か」を持っている男だと思った。彼の目は常に「何か」を狙っている目だった。
当時の彼の作品の記憶は今はほとんどない。だけどあの「何か」を狙っている目だけは今も忘れない。何時か神戸をでていく男であることを直感した。そのうちにグループの人間のほとんどが、彼と同じような目つきになってきた。伝染したのだろう。アッと言う間に一人抜け、二人抜けしながら、15人くらいのメンバーのうち8人までが時を同じく上京してしまった。
今度、日影君がグラフイックデザインではなく絵の個展を開くという。彼の作品は新聞や雑誌などで時々見ていたが、今度の個展の作品は少し「違う」のだそうだきっとあの時の「何か」を狙っていた目がモノにした新作が見られるかも知れない。昔の仲間が何年たっても同じように頑張っていることは嬉しい。個展のオープニングにはまたムカシの連中が集まってくるはずだ。(画家)